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 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第51回・谷崎潤一郎『鍵』を読む

01 『ピーコ語録』

 なんだか昔からつい目にふれたいいかげんな本を買ってしまう癖がある。先日も、大阪梅田のジュンク堂にふらりと寄って、つい何冊も買ってしまった。タイトルを見ただけで呆れられてしまうような本ばかり。ピーコ『ピーコ語録』(河出書房新社)、志村季世恵『大人のための幸せレッスン』(集英社)、石原壮一郎『大人の超メール術』(青春出版社)、志水彰他『人はなぜ笑うのか』(講談社)、スージー・マリン『ひとめぼれの法則』(小学館プロダクション)。とても人に見せられない本ばかりだが、それでも縁というものはなにより大事で、たまたま目に入ってきたというのも意味のないことではないように思われるのである。

 それにしても、『ピーコ語録』はおもしろかったし、すっかり感動してしまった。かつてピーコさんとはテレビでもご一緒したこともあるし、数少ない好きなタレントだということもあるのだが、たとえば、「友だちをつくるコツっていうのは、『もらわないで、あげる』」なんていう言葉を見ると、「さすがピーコ!」と思わせられる。「ストレスの解消は酒飲むしかないのよね。好きな人は、しょせん癒してくれるわけじゃないし」という一節も、なかなか意味深長だ。一冊がまるごと宝箱のようだった。

 石原壮一郎『大人の超メール術』もなかなか冴えていた。上司の凡庸な提案を適当にあしらう必殺フレーズとして、「なるほど、一理あるっていう気がしますね」。もちろん、上司だから、「ありきたりですね」とは言えないし、「いいですね」と持ち上げると話が面倒になりそう。「なるほど、一理あるっていう気がしますね」には、「一理以上はないし、しかも気がするだけ」という含みが隠されており、こんな例を見ただけでも、著者の並々ならぬセンスを感じてしまうのである。

 まあ、それにしても、「いいかげんに買った本ほど役に立つことがある」というのもまた事実で、これまでにも多くの本に助けられてきたということを、ここで改めて強調しておきたい。

02 谷崎潤一郎『鍵』(1956年)

 というわけで、話は全然つながっていないが、谷崎潤一郎『鍵』である。これほどすごい本は日本文学では他に見当たらない、と常々思っていた。それなのに、ちょっと評価が低すぎる。

 実は、文学ばかり読みふけっていた高校生の頃から、谷崎潤一郎や川端康成らは学校で教わるような「単なる」文豪ではなく、ポルノばかり書いている変態だということをしっかり理解していた(これは讃辞)。さすがに高校生だからSEX関連のものにはつい惹かれがちで、川端康成の『みずうみ』や『眠れる美女』などを特に愛読したし、谷崎潤一郎の『刺青』や『秘密』などにも強く惹かれるものがあった。しかし、それらのなかでも谷崎潤一郎の『鍵』はまた別格で、その猥褻さにはさすがに生唾を飲むような思いをしたものだった。

 そう、最初に10代で読んだときには尋常ではないポルノグラフィーだと思った。これは読んではいけないと思った。しかし、大学に入ってから20代で読んだときには、他の追随を許さない傑作だと思った。それから、何度か読み返す機会があり、いま主人公と同じ年齢になってさらに読み直してみると、これは一流の推理小説だと思うのだった。少なくともいろいろなことが隠されたまま終わっている。ここではその謎について触れてみたい。

『鍵』のすばらしさは、もちろんその構成の妙にある。夫と妻がそれぞれ秘密の日記をつけており、そこには相手を前にしては言い出せないSEXに関わる思いが赤裸々に記されている。登場人物は4人。56歳の大学教授の夫、45歳の妻・郁子、年頃の娘・敏子、その結婚相手とみなされている木村。これですべてである。

 夫婦はお互いに相手の日記は読んでいないと主張するが、それはともかく、日記に書かれていることが真実とは限らないところがやっかいで、読者までもが2人の心理的な駆け引きの中に埋没しそうになる。もちろん「読んだ」と書けば、興趣がそがれるので、あくまでも2人とも読んでいないと繰り返すわけである(このあたりにすでに2人の共犯関係が読みとれる)。

 さて、夫婦と娘、そして許婚の木村という4人が、1月28日、みんなで食事しながらブランデーを飲むところから事件は発生する。いや、事件の前触れになるようなものはすでにずっと前から夫の心に潜んでおり、いつ表面に躍り出るか待ち構えていただけなのだった。夫の冒頭の日記(1月1日付)には次のように書かれている。「僕は今年から、今日まで日記に記すことを躊躇していたような事柄をも敢えて書き留めることにした」。これまで妻に読まれることをおそれていたからできなかった。しかし、「僕は今『今年からは読まれることを恐れぬことにした』と云ったが、考えて見ると、実は前からそんなに恐れてはいなかったのかも知れない。むしろ内々読まれることを覚悟し、期待していたのかも知れない」と続く。では、なぜ抽出に鍵をかけるかというと、そうしないと、彼女が「これは私に読ませるために書いた日記だ」と多寡をくくってしまうのを恐れてのことなのだった(この小説のおもしろさは夫の日記がカタカナ、妻の日記がひらがなで書かれている点だが、ここでは読みやすさを考慮してともにひらがなで現代仮名遣いにしている)。

 それに対して、妻も1月4日の日記に次のように記している。「今日私は珍しい事件に出遇った。三カ日の間書斎の掃除をしなかったので、今日の午後、夫が散歩に出かけた留守に掃除をしに這入ったら、あの水仙の活けてある一輪挿しの載っている書棚の前に鍵が落ちていた。それは全く何でもないことなのかも知れない。でも夫が何の理由もなしに、ただ不用意にあの鍵をあんな風に落しておいたとは考えられない」。彼女は、その鍵を見て、自分はすでに夫の日記の所在は知っていたのだが、なぜ、わざわざそんなことをしたのだろうと疑心暗鬼になる。でも、私は絶対に夫の日記を盗み読みはしない。それに、私も今年から日記をつけ始めたし、それも「私には夫の日記帳の所在が分っているのに、夫は私が日記をつけていることさえも知らずにいる」という優越感がこの上もなく楽しい、と書く。

 1月7日。夫と妻、娘の敏子、その許婚と目されている木村でブランデーを飲む。「僕はかねてから、敏子が木村を避ける風があることを感じていたが、それは木村が彼女よりは彼女の母に親愛の情を示す傾向があることを、彼女も感づくに至ったからではないであろうか」と書く。事件の前兆はすでにここにほのめかされている。

 さらに、しかし、自分も「木村に対し淡い嫉妬を(淡くもなかったかも知れない)感じつつあった」「その半面、僕はその嫉妬を密かに享楽しつつあった、と云えないだろうか」「しかし妻に注意したいのは、云うまでもないことだけれども、刺戟剤として利用する範囲を逸脱しないことだ。妻は随分きわどい所まで行ってよい。きわどければきわどい程よい。僕は僕を、気が狂うほど嫉妬させて欲しい。事に依ったら範囲を蹈み越えたのではあるまいか、と、多少疑いを抱かせるくらいであってもよい」。そう書いても妻にはそんな大胆なことはできそうもないだろうが、それはお互いの幸福のためなのだ、と彼は書く。なんとも屈折した心境告白となっているが、これはもちろん是非とも妻に読ませたいことなのだろう。

 そして、ついに(みんなが望んでいた)事件は1月28日に起こる。ついブランデーを飲みすぎた妻の郁子が、突然人事不省になり、「風呂に漬かったまま浴槽の縁に両手を掛け、その上に顔を打つ俯せにして」睡ったまま発見される。もちろん全裸である。「木村はどうしてよいか分らず、浴室を出たり這入ったりうろうろしていたが、『君も手を貸してくれたまえ』と云うと安心してのこのこ這入って来た。『早く拭いてやらないと風邪を引く、済まないが手伝ってくれたまえ』と云って、二人で乾いたタオルを持って濡れた体を拭き取ってやった。(こんな咄嗟の間合にも僕は木村を『利用』することを忘れなかった。僕は彼に上半身を与え、自分は下半身を受け持った)」。

 夫は木村とともに妻を介抱しながら、油断なく彼の振る舞いを観察している。そして、医者を呼び、木村を帰し、深夜、夫婦の部屋に二人だけになってから、夫はこれまで拒絶されていた妻の全裸を明るい蛍光灯の下で見ることに成功する。「彼女の口から『木村さん』と云う一語が譫言のように洩れたのはこの時だった。かすかに、実にかすかに、たった一度だけであったが、確かに彼女はそう云った。これはほんとうの譫言だったのか、譫言の如く見せかけて故意に僕に聞かせたのではあるか、このことは今もなお疑問だ」。というように、事態は一挙にクライマックス目指して駆け上っていく。

 夫はさまざまな疑問で頭がいっぱいになる。「彼女の性質から推して、果してほんとうに睡っていたのか寝たふりをしていたのか、その点は疑わしい」。また、眠った彼女を散々もてあそんだ後も、「僕はこんな悪戯に耽ったことを日記に書かない方がよいのではあるまいか。妻がこの日記帳を盗み読みしていることは殆ど疑いないとして、こんなことを書いたら今後酔うことを止めはしないか」と考える。しかし、「恐らく止めはしないであろう、止めたら彼女がこれを盗み読みしていることを証拠立てられるし」とも書く。さらに、夫は「木村さん」という妻の一言に混乱する。実際に抱いているのは自分だったのだが、それを木村と混同するということが果たしてありうるのかどうか。どう考えても「わざと」としか思えない、いやもしかしたら、と疑うのだった。

 それについて、妻の日記には以下のように書かれている。「あれはたしかに夢に違いないけれども、あんなに鮮かな、事実らしい夢と云うものがあるだろうか。私は最初、突然自分が肉体的な鋭い痛苦と悦楽との頂天に達しているに心づき、夫にしては珍しく力強い充実感を感じさせると不思議に思っていたのだったが、間もなく私の上にいるのは夫ではなくて木村さんであることが分った。それでは私を介抱するために木村さんはここに泊っていたのだろうか。夫は何処へ行ったのだろうか。私はこんな道ならぬことをしてよいのだろうか。...しかし、私にそんなことを考える余裕を許さない程その快感は素晴らしいものだった」(1月30日付)。

 こうして、みんなは(娘の敏子の心中はよくわからないのだが)このゲームにどんどん熱中していく。彼らは夜になるとしばしばブランデーを飲み、妻が風呂場で失神して見つかるという出来事が続くようになる。あくまでもストーリーは、夫と妻との一見不可解な「共犯関係」をもって進行するのだが、どうにもわからないのが木村の行状で、彼がどこまで意識的に参加しているのかはどちらの日記からもうかがえないようになっている。夫はしばしばそういう木村の振る舞いに疑問を呈しており、それも単に嫉妬のなせるわざとは思えないのだった。

 たとえば、「木村は一昨日の深夜、彼が辞去した後に我々の寝室に於いて如何なる事件が起ったかを知る筈はないのだが、(僕は一昨夜夜が明ける前に蛍光燈を二階の書斎に戻しておいた)、そして又、まさか自分が郁子の幻影の世界に現われ、彼女を陶酔せしめたことを知っている筈はないのだが、にも拘わらず、内心郁子を酔わせたがっているかの如き様子が見えるのは何故であろうか。木村は、郁子が何を欲しているかを知っているかの如くである。知っているとすれば、それは以心伝心であろうか、或は郁子から暗示されたのであろうか」という一節。さらに、「...木村が今日妻が台所へ立って行った留守に妙な話をした。『アメリカにポーラロイド(Polaroid)と云う写真機があるのを御存知ですか』と云うのだった」(2月14日)。なぜ木村はぼくが深夜妻にしていることを知っているのか?

 こうしたさまざまな疑問が解かれることなく、娘の敏子は別居を申し出て、関田町にひとりで下宿する。これも理由が定かではない。どれもこれも謎に満ちている。

 そして、3月18日にさらに決定的な事件が起こる。敏子からの電話で、妻が関田町で倒れたと知らされるのである。つまり、そこで自分を抜きにして3人で飲んでいたらしいのである。いったいいつから? 夫の疑心暗鬼はさらに募る。「払暁まで僕は一睡もしなかった。昨夜の突然の事件は何を意味するか、それを考えることは恐怖に似た楽しさであった」「自分で勝手に、これはこう云う訳なのか、いやそうではなくてこうなのかと、さまざまな場合を想像して嫉妬や憤怒に駆られていると、際限もなく旺盛な淫慾が発酵して来る。事実をはっきり突き止めてしまうと却ってそう云う快感が消える」。さらに、妻は明け方から頻繁に「木村さん」と口走るようになる。

 このあたりまでくると、妻の心境にも大きな変化がやってくる。
「夫に嫉妬を感じさせることは、夫を幸福にする所以であることも分っていた。だからと云って、私は夫を刺戟するのが唯一の目的であったとは決して云わない、が、心にそう云う安心があったので、ついグラスの数を重ねたとは云える」「そして今までは、ここで厳重な一線を劃して、これ以上の道には踏み込まぬように努めて来たけれども、これからはひょっとすると、蹈み外すこともありそうな気がしている」。なんという変化、しかし、これもわざと夫に読ませるために書いたものかもしれない。われわれはあくまでも日記にかかれたことをそのまま受取ることは出来ないのである。

 いったいこの事件の進行を支配しているのはいったい誰なのか? 夫か、妻か、木村か、敏子か、それとも、そのなかの誰かが共謀してのことなのか? 最後にさまざまなことがわかってくるが(夫の死後に妻が書き続けた日記がある)、それでも、それによって何もかもが明らかになったというわけではない。むしろ、多くの謎が残されたまま結末を迎えることになる。

03 『鍵』の評価をめぐって

 もともと『鍵』は、『瘋癲老人日記』(1961年)などとともに谷崎潤一郎の晩年期にあたる作品である。『鍵』が1956年1月から『中央公論』に連載されたときには、あまりにスキャンダラスで毎号たちまち売り切れたという。そして、そういう事情もあってか批評家たちにはあまり好意的に迎えられなかった。いや、当の谷崎でさえ、昭和32年元旦のドナルド・キーン宛の書簡で、「現代日本文学選集はたしかに頂戴いたしました有難うございました私の「鍵」はあまり自信がありませんので差上げる気になりません又此の秋の御来遊を待つてをります御健康を祈ります」(原文ママ)と書いている。

 谷崎潤一郎『鍵』を英訳したハワード・ヒベット自身は、「『鍵』の英訳を読んだ書評家のほとんどは、この作品を、《秘密》の日記の形式による夫婦の自己表明に焦点をしぼることにより、また不要なものを前例がないほど捨てることによって強烈となった、ドラマティックな小説とみている」と書いている(「『鍵』『瘋癲老人日記』を翻訳して」)。

 それに対して、ドナルド・キーンは『ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー』1961年2月19日号に「記録された情熱」と題した『鍵』紹介の論説を載せている。それについては、村松定孝・武田勝彦『海外における日本近代文学研究』(1968年)に以下のように要約されている。「キーンは、主人公が娘と木村の助力を得て、妻を堕落させようと試みているが、妻自身と木村の意図が明瞭にされていないという。むろん、『一人一人が自分の計画を心に抱いているように思えるが、実際は四人ともただ一つの目的を持っている。郁子を堕落させるために最善を尽くしている』(ここでは谷崎の原典をかかげず、ヒベットの訳文にした)とキーンはいう。しかし、もっとも犠牲を受けたのは娘だと主張する」。

 ここで引用されているのは、原典では「つまり、それぞれ違った思わくがあるらしいが、妻が出来るだけ堕落するように意図し、それに向って一生懸命になっている点では四人とも一致している」となっているが、まさにこれこそ『鍵』の核心部分である。このテーマはクロソウスキー『ロベルトは今夜』とも重なるし、日記・書簡体文学という点ではラクロ『危険な関係』とも血縁関係にあるだろう。マゾヒスティックということならマゾッホ『毛皮のヴィーナス』も想起されようが、しかしながら、秘密の日記という仕掛け(真実が二重三重に隠されてしまう)は、これまでにないみごとな効果を生んでおり、『鍵』こそ20世紀文学の金字塔と評してもよいと思われる。

 その結末については、いろいろな意見もあるだろう。妻による「未必の故意」、裏切りと読むこともできようが、むしろ、「正月以来、他の一切を放擲して妻を喜ばすことにのみ熱中していたら、いつのまにか淫慾以外のすべてのことに興味を感じないようになった」(4月15日付)という夫の告白を読むたびに、いかに彼が幸せだったかという思いに捉われるのである。彼が心から望んだことは妻によってしか得られなかった。このあたりの心情を理解できないと、永遠に『鍵』の醍醐味を味わうことはできないだろう。

 最後になるが、ジョージ・スタイナーは『鍵』がポルノグラフィーかどうか考察したエッセイの中で、「想像力と欲望が人道の感覚を打ち負かすとき、また、人間が愛情と憎悪において物体として扱われるとき、私たちは良俗破壊をもつ」と論じ、谷崎潤一郎の『鍵』はそういう点でもダンテ『地獄篇』やドストエフスキー『悪霊』と同等であるとしている。これこそ谷崎潤一郎に対する数少ない正当な評価ではなかろうか。

○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。1972年、東京大学卒。東京大学人文科学研究科大学院(宗教学専攻)博士課程修了。その後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらのもとで研究を続ける。1980〜2002年、関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。1974年より現在まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続けている。著書に『男が女になる病気』『分裂病者のダンスパーティ』『快楽は悪か』『宗教学講義』『オデッサの誘惑』『聖地の想像力』他。

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