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 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第50回・ユダの福音書

01 ある夜、ピラミッドで

 このコラム(「愛・賭け・遊び」)を書き始めたときから一貫して主張しているのは、「どうせみんな死ぬんだから(確率100%!)、好きなことをやって人生を謳歌すべきだ」ということに尽きる。もちろん、そうした生き方はそう簡単にはできない。とりわけわれわれは遊ぶのが苦手で、さあ自由にしなさいと言われても、なかなかイタリアやスペインやブラジルやアルゼンチンの連中のようにはいかないものである。そういう気質というものは簡単には直らない。

 そういうぼくの場合はちょっとやりすぎで、この30年間、大学での研究のみならず、この人生で起こることなら何にでもちょっかいを出してきたのだった。修道院で生活したり、ギャンブルに狂ったり、テレビ・ラジオに出演したり、フィクションを書いたり、火炎瓶を投げたり、ゲームを作ったり、女の子たちと混浴に入ったり、脳に強い電流を流したり、およそ興味の湧くままに生きてきた。しかしながら、そんな人間だからこそ、ひとつのことに一生を費やす決意をした人にはつい敬意を表してしまうことにもなる。一つをとるか、全部をとるか。けちくさい欲望が一番みっともない。

 たとえば、修道士。
 エジプトのワディ・ラヤンの修道院の一日は次のようになっているという。毎朝4時から7時まで教会で夜明けの祈り、そのあと食堂でそろって朝食をとる。1時から1時半まで昼の祈り、そのあと食堂でそろって食事をとる。5時から6時にかけて教会で日没の祈り。夜食は各自の僧窟でかんたんに済ませ、そのあと一人で夜遅くまで祈る。教会で祈るときと、食事のとき以外は、水を汲みにいったり、泉のそばの小さな畑に植えた作物の世話をしたり、掃除や炊事や洗濯をしたりする(食事の支度は見習い修道士の持ち回り)。それ以外の時間は、各自の僧窟で過ごすことになる。

 なんというシンプルな生き方だろう。実は、ワディ・ラヤンの修道院についての上の記述は田中真知『ある夜、ピラミッドで』(旅行人、2000年)からの引用である。5年ほど前、ぼくはバリ島のウブドにひとりで滞在していたのだが、朝食のときに偶然声をかけてきてくれたのが田中さんで、彼は奥さんと8才くらいの男の子と一緒に同じロスメン「デワンガ」に泊まっていたのだった。そのとき彼は長く住んだエジプトから日本に戻る途中で、せっかくだからとバリ島に立ち寄ったということだった。

 ぼくはちょうどバナナとパパイヤを食べているところで、すでに食事を終えていた田中さんは男の子に「植島さんは宗教についてよく知っているエライ人だから、何か質問することないかい?」と聞いた。男の子は、ちょっとだけぼくに視線を送って、「いまのところ、ない」とポツンと答えた。それがぼくと彼らとのたった一度だけの出会いなのだが、日本に戻ってからさっそく彼の『ある夜、ピラミッドで』を探して買い求めたわけだから、われながら彼との出会いから何かインスピレーションのようなものを感じたのだろう。

 ほとんど知る人も少ないようだが、田中真知『ある夜、ピラミッドで』は、期待どおりすばらしい本だった。その内容は1990年春から97年末までエジプトのカイロで暮らしたときの見聞記なのだが、なかでも、「隠者たちの砂漠」と「聖マカリウス修道院のオリーブ」にはいささか感動させられた。というのも、その内容たるやエジプトのコプト教会、修道院でいま何が起こっているかを生きいきと伝えてくれているからだ。

 そこ聖マカリウス修道院やその周辺では、ぼくらが想像するのとはまったく違った事態が進行しているというのである。つまり、一方に禁欲的な修道士たちの生活があるとして、もう一方にインターネットを駆使したきわめて効率のよい経済ネットワークが稼動しており、実はそこはとんでもなく豊かだったというのだった。エジプト各地からきわめて優秀な(理科系の)頭脳の持ち主が集まってきている点でも、また、一方はキリスト教、他方は仏教という違いはあるがファンダメンタリズムの運動に従事しているという点でも、これはオウム真理教を思い浮かべずにはいられないだろう。しかしながら、日本とエジプトで同じような状況下でよく似た出来事が起こっていながら、どうしてこんなにも違った形になってしまうんだろう。なぜ日本ではオウム真理教のような怪物が生まれてしまったのか。

02 ユダの福音書

 つい最近になって、その聖マカリウス修道院からそれほど離れていない修道院跡でとんでもないパピルス文書が見つかったという。「ユダの福音書」である。正確にいうと、その文書は1970年代に紅海に近い聖アントニウス修道院から西70キロ足らずの場所で見つかったのだが、そのときには、だれも「ユダの福音書」とは気がつかなかったのである。

 その文書はそれから数奇な運命をたどった後、ようやく2000年4月になってエール大学のロバート・バブコック教授の手によって初めて「イスカリオテのユダの福音書ではないか」と推定されたのである。イエスの死後、かなり多くの福音書が流布していたことはたしかで、トマスの福音書やピリポの福音書などよく知られているものも少なくなかったのだが、いずれも後になって正典(4福音書のみ)から外されてしまったわけである。その理由についてはカトリック教会の政治的な目論見があってのことなのだが、異端とされたものの多くはグノーシス主義的な色合いのものばかりといってもよかった。つまり、グノーシスでは「人間の身体はあくまでも形だけのもので、その内側の魂だけが重要なのだ」と考えるわけで、それはキリスト教の心身2元論とはまったく相容れないものであった。しかも、グノーシスでは人間と神との直接的な神秘的合一を目指しており、そうなると教会の存在意義まで危うくなってくるのだった。

 新約聖書のもっとも古い部分(パウロの手紙の一部)が書かれたのは、おそらく西暦紀元49-62年とされており、4福音書もだいたい95年までには成立しているというのが一般的な見解だろう。そのわずか数十年後にいわゆるグノーシス主義の教派がキリスト教のなかでも有力となり、その教えにそって多くの福音書が書かれることになるのだが、それらは実際のところキリスト教会側からの批判を通してしかその存在を確認することができなかった。というのも、西暦180年頃にリヨンの司教エイレナイオスが『異端反駁』の中で、グノーシス派の教えを非難し、ユダの福音書についてまったくの偽りであると論じていたのである。同じくキプロスの司教エピファニオスも375年頃に『薬籠(パナリオン)』の中で、ユダの福音書について批判している。それはキリスト教がローマ帝国の国教となるのとほぼ同時期のことだった。

 そういうわけで、367年にアレクサンドリアの司教アタナシウスが新約聖書の現在の形を示す前後まで、初期キリスト教も一枚岩ではなくさまざまな要素を抱え込んでいたということがいまではわかっている。とりわけ初期キリスト教研究に大きな役割を果たしたのが、1945年にエジプトで発見されたナグ・ハマディ文書で、それはこれまでの初期キリスト教のイメージを一変させたのであった(ぼくも1970年頃に荒井献教授の学会発表を聞いて興奮した記憶がある)。

 ナグ・ハマディ文書(コプト語で書かれでいる)の中には、トマスの福音書、ピリポの福音書、真理の福音書など52点以上の未知の写本が含まれており、筆写されたのはほぼ4世紀頃だということもすでに明らかになっている。この発見によって、これまで間接的にしか知りえなかったグノーシス主義についてようやく光があてられることになったわけで、今回発見されたユダの福音書も、そのナグ・ハマディ文書が発見された修道院跡からそんなに離れていない場所で発見されたということなので、今後さらに詳細な研究が急ピッチで進められることになるであろう。

 前回、M・ラン『ダ・ヴィンチ・コード・デコーデッド』(秋宗れい訳、集英社、2006年)について紹介した中で、初期のキリスト教がけっして単一ではなかったという問題を取り上げた。新約聖書には4福音書だけが収められているが、実際にはもっと多くの福音書が存在しており、ただそれらは初期の教会の政治的な目論見に合致せず排除されただけというものである。

 しばしば偶然というのは重なるものである。ちょうどM・ラン『ダ・ヴィンチ・コード・デコーデッド』を読み終えた頃に、なんと4月の朝日カルチャーセンターでの講義(精神科医・名越康文さんとの「熱帯カウンセリング」)を聴きに来てくれた日経BPの三田真美さん(『ナショナル・ジオグラフィック』担当)から、ユダの福音書についてのナショナル・ジオグラフィック・チャンネルが制作した番組DVDとプレス・リリースが送られてきたのだった。さっそく拝見したところ、きわめて刺激的な内容で、そこには発見されてから復元の過程を含む詳細な検証のプロセスが描かれており、たしかにそれが150年頃に書かれた本物のユダの福音書の写本だと信じないわけにはいかないと思ったのだった。

 そこでは、ユダはイエスのもっとも愛した弟子として描かれており、イエスの魂を肉体から解放するために、あえてイエスを裏切り敵の手に渡したことになっている。ユダの行為はただイエスの言いつけに従ったもので、イエスによって「おまえは真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」と告げられるのである。

 もちろん、ここでお断りしておくが、その文書が本物の写本であることと、その内容が歴史的事実かどうかということとはまったく別問題だと思う。ユダの福音書が西暦150年前後に書かれたということはたしかだとしても、果たしてユダがそこに描かれているような人物であったかどうかはだれにも判別できない。むしろ、銀貨30枚と引き換えにイエスを売り渡したユダ像のほうがなんとなくしっくりくると思うのはぼくだけではあるまい。まあ、それについてはもうすぐその全貌がわかると思うので、それから改めて判断することにしておこう。

03 ボルヘス『伝奇集』

 ずいぶん前に読んだのだが、ボルヘス『伝奇集』(集英社、1975年、ただし原作は1940年代に書かれた)の中に、「ユダについての三つの解釈」という短編がある。ボルヘスはすでにその中で、1904年にニールス・ルーネベルクによって書かれた『キリストかユダか』を引きつつ、ユダの行為は単なる裏切りではないという議論に触れている。そして、「使徒たちの中でユダ一人が、イエスのかくれた神性と恐ろしい目的とを直観していた。御言葉が死すべき人間にまで身をおとされたのである。御言葉の弟子たるユダは、(恥辱が待ち受けている最悪の罪である)密告者という役割に身をおとし、永劫に消えることのない火を甘んじて引きうけることができた」(『伝奇集』172頁)と書いている。

 いまから60年も前のことである。なんという卓見であろう。ボルヘスはユダが裏切り者ではない論拠として、「この世界の歴史においてもっとも貴重なドラマの中に単なる偶然があったと認めるのもたえがたい。かかるがゆえに(引用元に傍点あり)、ユダの裏切りは偶然ではない。それは救いという営みの中に神秘的な地位を占める予定の行為であった」(72頁)と書いている。なるほど、そうなってくると、たしかにユダの福音書の持つ意味合いもまた違ってくることだろう。

 このところ『ダ・ヴィンチ・コード』からユダの福音書まで聖書の謎に深入りしそうになったわけだが、それも単なる気まぐれというわけではない。ぼくもネパールにおける処女神(クマリ)崇拝を通じて西アジアにおける大地母神信仰の系譜を調べている関係で、その問題意識からして『ダ・ヴィンチ・コード』が扱っているテーマとほとんど重なってくるのである。クマリ崇拝とは、3,4歳の女の子をひとり国家の生き神として選び出し、彼女のもとで国王の信任が行われるという制度で、現在のところそれだけの規模で「処女神」が信仰されているのは世界的にもネパールだけといってよい。

 現在ぼくはそこからスタートして、インドにおけるクマリ崇拝の背景、西アジアにおける大地母神信仰、そのヨーロッパへの波及形態と東アジアにおける展開という大きな問題とかかわっているわけで、もちろん領域は違うものの、ダン・ブラウンの「ヨーロッパにおけるマリア崇拝の根源にいったい何がひそんでいるのか」という視点は、まったく他人事とは思えないのである。

 いよいよ連休が明けると、久しぶりにインドネシア・バリ島調査に出かけることになる。熱帯のやけつく太陽のもとでしばらくは何も考えないで過ごしたいと思っている。愛は、愛する人が不在のとき、究極の純粋さを帯びる。だからリルケは、女を捨てるたびに恩恵を施したと心から信じていたようである(L・リプキング)。人はどんなに不道徳であったとしても信じさえすれば何でもできるということである。

○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。1972年、東京大学卒。東京大学人文科学研究科大学院(宗教学専攻)博士課程修了。その後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらのもとで研究を続ける。1980〜2002年、関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。1974年より現在まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続けている。著書に『男が女になる病気』『分裂病者のダンスパーティ』『快楽は悪か』『宗教学講義』『オデッサの誘惑』『聖地の想像力』他。

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