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集英社新書WEBコラム

 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第49回・ダ・ヴィンチ・コード

01 なぜ『ダ・ヴィンチ・コード』は4000万部も売れたのか

 なんというか歴史ミステリーというジャンルには人々の熱狂を誘うものがあるらしい。かつてグラハム・ハンコックが『神々の指紋』(大地舜訳、翔泳社、1996年)を出したときも一大古代史ブームが湧き起こり、ぼくもそれに駆り出され、グラハム・ハンコックとの対談までセッティングされたのだが、あれからほぼ10年、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』(越前敏弥訳、角川書店、2004年)がもたらした大騒動も、映画が公開されることが決まって、今年になってさらなる盛り上がりを見せている。

 すでに読み終わった方も多いと思うが、ストーリーは、ルーヴル美術館長が死体で発見され、その夜館長と会う約束になっていたハーヴァード大学教授ラングドンが警察より捜査協力を求められるところからスタートする。その死体はダ・ヴィンチのもっとも有名な素描(ウィトルウィウス的人体図)を模した形で横たわっていた。いったいだれが何のためにそんなやっかいなことを仕掛けたのか。

 ラングドンはフランス警察の暗号解読官ソフィー(ルーヴル美術館長の孫娘)とともに、いくつかの謎を解き進めるうちにダ・ヴィンチが自分の絵のなかにさまざまな暗号を描きこんでいたことに気がつく。なかでも最大の謎は「最後の晩餐」のなかに隠されていたのである。なんとイエスの隣に描かれているのはヨハネではなくマグダラのマリアなのだった!

 というわけで、物語の背景には「シオン修道会」という秘密結社があって、マグダラのマリアがイエスの子どもを身ごもったままヨーロッパに渡り、その血脈がメロヴィング朝を通じて伝えられてきたという事実に基づいて活動してきたというように展開していく。さらに、ダ・ヴィンチ自身もそのシオン修道会の第12代総長だったというのである(それらについて書かれている秘密文書『ドーシアーズ・シークレッツ』は1975年フランス国立図書館で発見されたが、真偽のほどは定かではない)。

 そう要約すると、なんだかイエスの墓が青森の戸来(ヘライ)村にあるというトンデモ本系の話に聞こえるだろうし、正面きって議論したり批判したりするのもどうかと思われるだろうが、これがなかなかよくできていて多くの人々の興味をそそるようになっている。そうでなければ、全世界で4000万部を超えるベストセラーにはなるまい。主人公ラングドンがハーヴァード大学宗教象徴学の教授というのも、とても他人事とは思えず、ぼくも例外ではなくたちまち全篇にちりばめられている謎に魅了されてしまったのだが、おもしろがるのと(宗教学者として)コメントするのとはまた別問題で、そういう意味ではなかなか扱いの難しい本なのであった。

02 『ダ・ヴィンチ・コード・デコーデッド』

 これまで、『ダ・ヴィンチ・コード』関連本(おそらく50冊以上)にも何冊か目を通してきたわけだが、なかでもサイモン・コックス『ダ・ヴィンチ・コードの謎を解く』(東本貢司訳、PHP研究所、2004年)、ダン・バーンスタイン編『ダ・ヴィンチ・コードの「真実」』(沖田樹梨亜訳、竹書房、2006年)あたりがもっとも好ましい部類で、J・A・U・ファボ『「反」ダ・ヴィンチ・コード』(目時能理子訳、早川書房、2006年)などに至っては、あまりに感情的過ぎて、かえって読者に反感を抱かせる結果に終わっているような気がする。

 たしかにダン・ブラウン自身が冒頭で「事実」として、わざわざ「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて真実に基づいている」と宣言しているわけだから、真偽論争が湧き起るのも仕方はないのだが、そんなに目くじら立てて議論するよりも、もっとフィクションを楽しむ姿勢が大事だとあえてここでお断りしておきたい。

 そういうわけで、なんだか『ダ・ヴィンチ・コード』マニアとか思われるのもイヤだが、つい最近になって、マーティン・ランの『ダ・ヴィンチ・コード・デコーデッド』(秋宗れい訳、集英社、2006年)が出たので、これもさっそく買って読んでみた。なかなか全体がコンパクトにまとめられており、どちらかというとダン・ブラウンに好意的な印象を受けるが、それはそれでかなり興味深く読むことができた。

 M・ランの視点は、キリスト教において実際にあった出来事と『ダ・ヴィンチ・コード』で取り上げられている事柄とのあいだにいかなる整合性が見られるかという一点に絞られるかもしれない。もちろんテーマ項目は全篇にわたっているが、主要な論点はやはりシオン修道会をめぐる真偽論争とキリスト教成立からコンスタンティヌス帝による公認に至る300年ほどの歴史的背景についての議論となる。

 ぼくが共感したのは、特に後者をめぐる次のような論点である。
 「現在我々の元にある新約聖書は、四世紀に、コンスタンティヌスにとって好ましい政治的意図をもって書かれたということである。それは、アメリカ大統領が、自分の政治的目標と合致するようにシェイクスピアを修正するようなものだ」(130頁)。

 「新約聖書は、手つかずの状態で今日に伝えられてきたわけではない。福音書の中には、キリスト教の〈公認路線〉に合致しないために切り捨てられたものもある。元来の、互いに矛盾するマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書は、その時々の流儀と政治的傾向に沿って訳され、書き換えられてきた。五千ほど現存する新約聖書の写本の中に、四世紀以前のものはない」(157-8頁)。

 「元来は多様な福音書が存在したのだが、三六七年にアレクサンドリアのアタナシオス司教が選出した幾つかの書が、三九三年のヒッポ会議にて同意され御墨付きを得た。後にリストはさらにカットされ、最終的にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書だけが公認されたのだ」(201頁)。

 つまり、日本の『古事記』『日本書紀』がそうであるように、特に宗教にかかわる事柄は、時の権力者の手によっていくらでも改竄されてきたわけで、どれもそのまま鵜呑みにはできないということである。現存するものだけを絶対視して、他を外典として放逐しようとするのは、そこになんらかの政治的な意図があったと思われても仕方がない。M・ランの『ダ・ヴィンチ・コード・デコーデッド』はそうしたキリスト教会側の見解(「聖書を無批判的にそのまま受け入れよ」)について厳しく戒めているように読めるのである。

03 対談

 まあ、そんなふうにして『ダ・ヴィンチ・コード』をめぐる大騒ぎを傍観しているうちに、なんと『ダ・ヴィンチ・コード』を翻訳した越前敏弥さんと対談することになってしまった。映画『ダ・ヴィンチ・コード』の封切りに合わせたもので、ほとんど表舞台に姿を現そうとしなかった彼も、同じ角川書店の企画ということで渋々対談の場に駆り出されたということらしい。

 ところが、お会いしてみると、誠実な人柄がすぐに伝わってきて、たちまち意気投合してしまった。ぼくらはその時点でまだ映画を見ていなかったので、なかなか映画の内容にまで踏み込んで議論することはできなかったのだが、まずは、ぼくが興味を抱いていた「盗作」問題について聞くことから始めることにした。つまり、『レンヌ=ル=シャトーの謎』の著者らが『ダ・ヴィンチ・コード』を盗作として訴えた一件である。そのニュースを聞いたとき、なんともいえない不快な気持ちになったのだが、越前さんから、「すでにこれまでダン・ブラウンは多数の訴訟沙汰を抱えていること」、「訴えたのがH・リンカーン以外の2人(M・ベイジェント、R・リー)だったこと」を知らされて、「やはり」と思ったのだった。

 というのも、すでにDVD『ダ・ヴィンチ・コード・デコーデッド』(紛らわしいが、M・ランの著作とは別物である)で、H・リンカーンが『ダ・ヴィンチ・コード』についてコメントするのを見て、とてもそんな人物には思えなかったからである。このDVDには実際にいろいろな人物が登場するのでだれが胡散臭くて、だれが信用できるか、一目瞭然なのであった。

 つい先日(4月7日)、ロンドンの高等法院は、「『ダ・ヴィンチ・コード』は盗作ではない」として原告の訴えを退けたわけだが、もちろん当然の結果であろう。『ダ・ヴィンチ・コード』が『レンヌ=ル=シャトーの謎〜イエスの血脈と聖杯伝説』を参考にしたのはダン・ブラウンも自著の中で断っているし、インスピレーションを受けたのは否定できないが、それは盗作とはまた次元の違う問題だと思われるからである。

 ぼくからすると、『ダ・ヴィンチ・コード』が成功したのには次の3つの理由が挙げられると思う。
 (1)M・ランも繰り返して論じているように、マグダラのマリアをはじめとする初期キリスト教の持つ多くの問題点に切り込んだこと。
 (2)謎解きミステリーを待望していたファンに対して、フィボナッチ数列、黄金比、ローズ・ライン、神聖幾何学などを含めて暗号解読の喜びを与えたこと。
 (3)レオナルド・ダ・ヴィンチの絵(『最後の晩餐』『岩窟の聖母』など)が抱える謎について、これまでにない図像学的な解釈を採用したこと。

 特に『最後の晩餐』は1999年に20年がかりの大規模な修復を終えたばかり。これまでになく鮮明な形で見ることができるようになったわけで、そこにマグダラのマリアが描かれていると言われて自分の目を疑った人も少なくなかったはず。隠されていたものが見えるのよりも、ずっと自分の目の前にあって十分知っているはずのものが全然違った形で姿を現したほうが、人は大きなショックを受けるものである。

 越前さんとは、撮影があって、対談があり、それからワインを飲みながらかなり長く話し込んだわけだが、別れ際にダン・ブラウンの新作『パズル・パレス』(越前敏弥・熊谷千寿訳、角川書店、2006年)をいただいた。ぼくも何冊か翻訳したことがあるけれど、翻訳というのは本当に大変な仕事で、この2年間みんなが『ダ・ヴィンチ・コード』で騒いでいるあいだに、彼はもうすでに違った仕事に取り掛かっていたのだった。

 すでに暗くなった渋谷の街を歩きながら、どこでもいいから外国に出かけていって、ゆっくり本を読んで過ごしたいとしみじみ思ったのだった。今年ももうすぐゴールデンウイークがやってくる。

○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。1972年、東京大学卒。東京大学人文科学研究科大学院(宗教学専攻)博士課程修了。その後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらのもとで研究を続ける。1980〜2002年、関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。1974年より現在まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続けている。著書に『男が女になる病気』『分裂病者のダンスパーティ』『快楽は悪か』『宗教学講義』『オデッサの誘惑』『聖地の想像力』他。

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