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集英社新書WEBコラム

 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第48回・私は大学教師そして売春婦

01 コールガール

 ジャネット・エンジェル『コールガール』(筑摩書房、2006年)を読んだ。フランスのアンジェで生まれ、アンジェ・カトリック大学で神学を学び、イェール大学で修士、ボストン大学で人類学の博士号を取り、ハーバード大学やMITなどで教壇に立つ彼女は、経済的に追い詰められ、昼はカレッジで教え、夜はコールガールをやって稼ぐ日々を送ることになる。それだけでも十分ショッキングだけれど、持ち前の好奇心と鋭い人間観察力を駆使して、彼女はその日々を克明に書き綴っている。いったい彼女がそこで見たものとは何だったのか。

 もともと本書を手に取ったのは、親友の那波かおりさんが翻訳したという理由による。彼女とは20年以上も前に編集者(彼女)と書き手(ぼく)として知り合ったのだが、一緒にバリまで出かけたり、大勢で飲みに出かけたりしながら、なかなか得がたい交友を続けてきたのだった。かつてこのコラムで紹介したゴードン・トーマスの『欲望と抑制のあいだで』(第8回)も彼女の翻訳によるものである。ぼくは彼女の翻訳が好きなのだ。というわけで、まずは「訳者あとがき」から読み始めたのだが、その冒頭の文章がいかにも彼女らしい。

 仕上がったばかりの本書の訳稿を読んでくれた若い友人が言った。『わたしが娼婦になるんだったら、これぐらいの労働条件は約束してほしいな』一瞬、かっくんと腰が抜けるような気分を味わった。わたしには売春できるかできないか、そんな自問を軽く跳び越えて、娼婦になった場合の福利厚生にまで気がまわる軽やかさに圧倒された。だがその実、わたしも同じようなことを考えていた。にもかかわらず、あいまいなまま言葉にしていなかった偽善を突かれた、という感もあったのだ。

 誤解と顰蹙を怖れずに告白すると、「もしかしたら、わたしにもできる?」という問いかけが、訳しているとき何度か頭をかすめた。すでに読み終えた方には、この感じ、わかってもらえるのではないだろうか。

 わかる、わかる、ぼくも読み終えた後でコールガールについての偏見が少し薄れ、周囲の女友達に同じ質問をして、実際に顰蹙をかったりしたのだった。もちろんジャネット・エンジェルは普通のコールガールとはかなり違っていたわけで、彼女の知的好奇心にこちら側が刺激されたという事情もあった。読み進める上で何がもっとも共感したかというと、彼女がとても素人くさく、試行錯誤を続けながら仕事をこなしていくその姿であり、そして、「わたしは学者だから、これは一種のルポルタージュでありフィールドワークである」というような言い訳をまったくしなかった点である。彼女はひとりの人間としていさぎよくコールガールに挑戦したのだった。

 本来、人を惑わすには二通りの方法がある。(1)まったく正体を見せず、いつも曖昧な印象を与えること、または、(2)正体はいつも明確にするものの、正反対の要素を一身にまとっていること。どちらが魅力的かと問われれば、もちろん後者のほうであろう。ほとんど初歩的な計算ができない数学の天才、昼は銀行に勤めるジャズ・アーティスト、ホームレスのような暮らしをしながら億という金額を動かすデイトレーダーなど、彼らの存在にはわれわれの心を揺さぶるものがある。

 しかし、なかでも、昼はもっとも知的な職業のひとつとされる大学教師でありながら、夜はコールガールとして働く女性がいたとしたら、いったいどうだろう。彼女に興味を持たない人はこの世にひとりもいないだろう。まったく正反対の二つの人生を送るというだけで十分にミステリアスなのに、ただの学究心からではなく、必要に迫られて自分からそんな生き方を選んだとしたら、そして、人並み以上に真摯にその仕事に取り組んだとしたらと、もうそれだけで十分ポルノグラフィーの域を超えてしまう。

02 何が彼女をそうさせたか

 主人公のジェン(著者自身)がコールガールになったのは経済的理由によるものだった。一緒に暮らしていた恋人ピーターが彼女の銀行預金をごっそり引き出して姿をくらましたのである。彼女はせっぱ詰まって仕事を探し、最後にようやくエスコート・サービス(コールガール)の仕事にたどり着いたわけである。たまたま彼女が電話したエスコート・サービスを切り盛りするのはピーチという女性。ジェンがおそるおそる電話し、いくつかの言葉のやりとりを行うと、ピーチはすぐに「けっこう、あなたと契約しましょう。今夜、ブルースと会ってもらうわ。彼、あなたを気に入るはずよ」と言うのだった。えっ、今夜!

 おそらくブルースは「コールガール初体験女性」専門の客で、ピーチのお眼鏡にかかった人物だったのだろう。実際、ジェンはすっかりその経験に魅せられてしまった。

 ブルースとのセックスは、実際、あのろくでなしのピーターとのセックスよりはるかによかった。第一、これにはお金がついてくる。それに一夜かぎりの相手のときにいつも感じる性交後の空しさもなかった。彼が寝返りを打ってわたしを上に乗せたので、胸に顔をうずめて心臓の鼓動を聞いた。指先でやさしく胸を愛撫した。噴き出た汗に息を吹きかけると、彼はぶるっと身を震わせ、もう一度わたしを抱きしめた。もしかすると、これまでの一夜かぎりの体験のなかで、今回がいちばんよかったのではないだろうか。

 しかし、いつもブルースのようないい客ばかりではない。ボストンのバックベイに住む客は彼女を乱暴に扱い(「おまえは淫売だ。そうだろ? だったら、おれの言うとおりにしろ」)、傷だらけにし、ベッドに縛りつけてセックスした後で、さらにアナルセックスまで強要してきたのだった。なんという恐怖。それからも、いろいろな客と出会うことになるのだが、彼女のしっかりとした観察を追いつつ読んでいくと、ユーモアまじりながら、なんとも男が哀しい動物に思えてくる。そして、まるで彼女がセラピストかカウンセラーのように思えてくる。なかでも、チェスナットヒルにひとりで住むほっそりとした男との一夜は印象的だった。彼はジェンに下着姿になって化粧するところを見せてくれと言う。「それだけでけっこうです」。そして、彼に次のように話しかけてくださいと言うのである。

 彼はベッドの足もと側にあるルイ十五世様式の椅子に腰かけた。「こう言ってください。『お母さまはね、お父さまとお出かけする仕度をしているのよ』」細く震える声で言った。まるで遠いかなたから聞こえてくる声のようだった。「『シッターがまもなく来るわ。今夜は、お父さまがわたしを夕食に連れて行ってくださるの』」

 たいていのコールガールは彼を笑いものにするか、楽な客だったとせせら笑うことだろう。だが、彼女の場合は違った。いったい彼の子ども時代に何があったのだろう。なんという深い心の闇。一生引きずる心の痛み。ジェンはそれをしっかり受けとめようとする。フロイトに指摘されるまでもなく、セックスというものは多かれ少なかれそうした経験と無縁ではない。彼女は人類学者らしくそれを冷静に見つめながら毎晩のように客をとるようになるのである。

 しかし、さまざまな問題はあるものの、ジェンは大学で教える仕事と夜の売春行為との間のギャップをいくらか楽しんでいたふしがある。たとえば、彼女はブルースとのセックスの後で教壇に立ち、前の晩のことを思い出していた、服を身につけ、ワインをひと口飲んで、手にぎゅっとお札を押しつけられて―

 悪い感覚ではなかった。ほんの一瞬だったが、わたしはそのとき立っている場所から離れ、まるで魂が肉体から離脱したかのように自分自身の姿を見ていた。その眺めは好ましく思えた。自分の教師としての能力を、大切なことをていねいに教えているという事実を好ましく感じた。昨夜、自分がセクシーできれいで魅力的であることにお金が支払われたという秘密を持っていることもうれしかった。私はどちらの自分も好きだ、両方とも、とても気に入っている...

 そして、教壇でハッとわれに返るのだった。その逆のシチュエーションもある。

 一方、コールガールをしているときは、客に乳房を撫でまわされても、目を閉じてわずかにのけぞった状態で、翌日「アサイラムのクラス」でどんな課題を出そうかと考えた。時間は有効に使うべし。心をどこかべつの時間と場所に飛ばせたら、退屈するということもないのだろう。

 また、MIT(マサチューセッツ工科大学)の教授とのセックスについても、やや不謹慎のそしりは免れないだろうが、以下のように記している。

 その夜、MITの教授と会っているとき、わたしは何度もセスとの会話を思い出した。わたしは教授の机に腹這いになって、部屋に置かれた水槽の魚を見つめながら、彼を後ろから受け入れていた(これは、わたし自身もかなり没入できるファンタジーのひとつだ。教授は、翌日この同じ机で学生と退屈なやりとりをしながら、今夜のセックスを反芻する。それにわたしも一役買っているという興奮。のちにわたしは、多くの客がこれと同じような夢想をいだくことを知った)。

 誰しも人に言えない秘密の一つや二つはあるもので、それによって後ろめたい思いをしなければならないが、それこそ(逆説的ではあるが)生きるうえでの深みにもなっている。人が心から望むものはそう社会と折り合いのつくものばかりではない。そうしたものを抱えながらわれわれは生きている。見たとおりのままの人生ではおもしろくもおかしくもないではないか。

03 秘密

 そういえば、ちょっと話は変わるが、1月12日付けの読売新聞の1面に「不器用な頑固者」門田博光が野球殿堂入りしたことを讃えたコラムがあったのを思い出した。「人生はひと筋がよし寒椿」(五所平之助)の句をそえ、「フルスイングひと筋に咲いた花は深い色をしている」と結んでいる。まあ、別にあえて否定することでもないけれど、ぼくはこの「人生ひと筋」というのがキライだ。いや、表面では一裁判官として生涯を送り、死後、彼が偉大なポルノグラフィー作家だと判明したようなケースはまた別(『家畜人ヤプー』の著者はまだ彼ではないかと疑っている)。ひとつのことしかしないで終わったら、人生はなんと殺伐としたものだろう。

 あるときはきびしく仕事に取り組み、あるときはバーで飲んで女の子を追いかけ、あるときはギャンブルに大金を賭け、あるときは世界中を旅し、あるときはスポーツジムで禁欲的に身体を鍛えるというような毎日が望ましい。もしそれが喜びをもたらすものであるならば、やっていけないことなんかほとんどない(と言ってもいい)。

 ジャネット・エンジェルも次のように告白している。「秘密を持つことは楽しい。もうひとつのわたしの人生が、わたしの表の人生につねにエネルギーを注ぎつづけてくれた。それは、ふたつの隔たりがあまりに大きく、エスコート・サービスで働くことが社会的な禁忌(タブー)であるからこそだった。私にとって毎日が綱渡りだった。そして、綱渡りほど体内にアドレナリンをみなぎらせるものはなかった」と。この一節は那波かおりさんもあとがきに引用しているし、帯にも使われているのだが、まさにジャネット・エンジェルの面目躍如といったところではないか。

 生きるということはまさにそういうことなのだ。会社でこつこつと仕事に励んだりするのは、その後に、そういう喜びをもたらしてくれる出来事が待っているからであって、その逆ではない。もちろんそれがセックスやお金である必要はまったくないが、彼女の選択を完全に否定することは誰にもできないであろう。

 まあ、賛否両論あるのは仕方ないことだが、最後はフェルナンド・ペソアの言葉で結びたい。「人生を生きよ。人生によって生きられるな。真理にあっても誤謬にあっても、快楽にあっても倦怠にあっても、本当の自分自身であれ。それは夢見ることによってしか到達できない。なぜなら現実生活は、世間の生活は、自分自身に属しているどころか、他人のものであるからだ。だから、人生を夢で置き換え、完璧に夢見ることのみに腐心せよ」(フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』)。

○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。1972年、東京大学卒。東京大学人文科学研究科大学院(宗教学専攻)博士課程修了。その後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらのもとで研究を続ける。1980〜2002年、関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。1974年より現在まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続けている。著書に『男が女になる病気』『分裂病者のダンスパーティ』『快楽は悪か』『宗教学講義』『オデッサの誘惑』『聖地の想像力』他。

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