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集英社新書WEBコラム

 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第47回・空想の力が現実を打ち負かす

01 映画『ポビーとディンガン』

 突然ある人妻からメールが入って映画に誘われた。これまで一度も2人きりになったこともないし、なにより知り合ってからまだ数えるほどしか会ったことがなかった。12月に入り、忙しさもピークという時期に、ぼくらは恵比寿ガーデンシネマに出かけていった。どうしても会わなければならない人にも会えないくらい忙しいのに、どうしてそういうことになったのか自分でもよくわからない。でも、しばしばこういう気まぐれが何か大切なことをもたらせてくれたことがあって、そうしたカンみたいなものが働いたのだろう。いや、そうとしか思えないのだった。

 映画のタイトルは『ポビーとディンガン』。ぼくは待ち合わせて映画館に入るまでタイトルさえ知らなかった。彼女は後で「もしつまらなかったらどうしようかと思ってドキドキしていました」と言ったけれど、彼女も子どもの送り迎えなど忙しい時期にわざわざぼくを誘ったわけだから、映画の内容はどうであれ彼女の誘いそのものに乗ってみることが大切で、映画の出来不出来はどうでもいいと思っていた。しかし、そう書くと、彼女がすごくセクシーな人で、何か下心があったんじゃないかと思われても仕方はないのだが、そういうのとはちょっと違っていて、もっとぼんやりとした気持ちのまま出かけて行ったのだった。

 映画『ポビーとディンガン』は11歳の男の子(アシュモル)と9歳の女の子(ケリーアン)の兄妹が主人公で、普通だったらわざわざ足を運ばないような映画のように見えた。しかし、2人の名前がポビーとディンガンなのかと納得しかけたところで、実はポビーとディンガンは妹ケリ−アンの空想上の友だちの名前だと知らされる。妹は内向的でほとんど友達もなくだれにも心を開かない女の子。そんな彼女の唯一の話し相手がポビーとディンガンなのだった。父親も兄も「そんなものはどこにもいないんだよ」と説得するのだが、彼女はまったく聞き入れようとしないのだった。

 そんなある日、友人宅でバーベキュー・パーティがあり、どこにも行きたがらない娘を心配して、父親は、ポビーとディンガンを連れて採掘現場(父親の仕事はオパール採掘で、町は一攫千金を狙う連中でいっぱいだ)に出かけるから、母親と娘はそのパーティに出かけて楽しんでおいでと言う。父親は息子に採掘現場で実際の発破のやり方を教えようとするが、火薬の量が多すぎてちょっとした落盤事故を引き起こす。一方、パーティに呼ばれた娘はポビーとディンガンのことが心配でとても遊ぶ気持ちになれないでいた。

 そして、その夜のこと、バーで一杯やって、やっと帰ってきた父親(ちょっとしたケガをしている)と兄に、妹のケリーアンは「ポビーとディンガンは?」と聞く。そんなことなどすっかり忘れていた2人は「そのへんに帰っているんじゃないか」とこたえる。「いや、どこにも帰っていないわ」と妹。そのときはまさかそれがどれほど重大な事態を招くことになるのかだれも気がついていなかった。

 必死になってポビーとディンガンを探す妹。彼女はどんどん元気をなくし衰弱していく...まだ映画を見ていない人のためストーリーはここまでしか書けないが、後半はすばらしく感動的な展開で、最後は涙があふれてとまらなくなる。「空想の力が現実を打ち負かす」という今回のエッセイのタイトルがすべてを物語るのだが、明らかに最初「妹はちょっとおかしい」と思っていた兄アシュモルが妹ケリーアンの「心の真実」を信じようと奔走する姿を見ながら、人間同士の本当の結びつきってこれしかないと思わないではいられなかった。心の中で起こったことは現実には起こらなくてもそれはそれでひとつの真実なのだ。われわれが他人とひとつになれるとしたら、そうした相手の真実にどこまで寄り添えるかということにかかっているのである(ただし一緒に沈没する危険もあるわけだが)。

 映画館を出て、ぼくらはワインを飲みに近くの店に入った。まだランチタイムだった。彼女にも11歳の息子がいて外国人学校に通わせているということは知っていたが、ちょうど映画の主人公と同じ年齢だったので、そのことでいろいろ経験したことを話してくれた。たとえば、作文を書くという時間に、彼女の息子は文章を書いていて途中から絵を描きはじめてしまったことがあったという。そんな時、外国人の先生は、「ああ、きれいな絵だね、絵があるおかげで、そのときの情景がすごくよく伝わってくるよ」と言ってくれたそうだ。日本の小学校だったら、作文用紙に途中から絵を描きはじめたとしたら当然注意されるだろう。「絵は図工の時間に描きましょうね、いまは作文の時間なんですからね」と。子どもに社会の秩序を教えることも大切だ。しかし、それによって失われるものもまたたくさんある。それに果たして教師や親たちが気づいているかどうか。

02 想像力こそすべて

 レイモン・ルーセルが、いまから100年も前に世界の果てから果てまでを旅したのに、その経験についてほとんど書こうとしなかったという話は、以前にもちょっとだけ触れたことがある(第27回旅する人々)。それこそ自分の空想の力を上まわるような現実など世界中のどこにも存在しないという信念のなせるわざであった。

 一応、ルーセルの言葉を引用しておこう。「私はまたここで、かなり奇妙な一つの事実について言っておく必要がある。私は多くの旅行をした。特に、1920-21年には、インド、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋の島々、中国、日本、アメリカを経て、世界一周をした(この旅行のあいだ、タヒチにかなり長い間滞在し、ピエール・ロティのすばらしい本の中の数人の登場人物に会うことができた)。私はそれまでにヨーロッパの主要な国々、エジプト、北アフリカ全体を知っており、その後には、コンスタンチノープル、小アジア、ペルシアを訪ねた。ところで、私は自分の本を書くに当って、こうした旅行を一度も素材として利用したことがない。この事実は、私にあっては想像力が全てであることをはっきり示しているゆえ、指摘しておく価値があるように思われた」(M・レリス『レーモン・ルーセル〜無垢な人』岡谷公二訳、ぺヨトル工房)。

 われわれは他人から見たら気狂いに見えるほど自由に物事を判断する力を持っている。何も他人と同じである必要はない。だれも考えなかったことを考えなければならない。怖れるものは何もない。それなのに人々はいったい何を怖れているのか。

 ピエール・クロソウスキーは、自分の妻が他の男たちに凌辱されることをいつも夢見ており、それを主題として『ロベルトは今夜』を書いたわけだが、そこで彼は次のように告白している。「世界に何が起ころうとも誰にも関係はない。しかしある人に何かが起きた場合には、それは世界に起きたことすべてに匹敵するのだ。そのものが世界のなかで取るに足らないものとして示されようとも、その取るに足らないものが精一杯の強度で思考に達すれば、その後何が起ころうとも、思考は世界のなかで、取るに足らないそのものによってしか、この世の出来事を表示しなくなるだろう」(若林真・永井旦訳、河出書房新社)。こうした想像力、空想の力はわれわれの欲望を動かす原動力であり生きる力そのものなのである。現実に何が起こるかはそれほど重要ではない。心を揺さぶるものがいったいどこからやってくるのかということだけが問題なのだ。

 それについて、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』では、まったく逆の側からのアプローチが描かれる。たとえば、次のような一節。「たえずあなたを裏切っているのは、あたしの想像力、あたしのぼんやりした夢想なのよ。あたしの身体を衰弱させて、あたしの頭のなかから、こんな夢想をすっかり追いはらってちょうだい。あたしの身体を、あたしの自由にならないようにしてちょうだい。あなたを裏切ることを考える暇さえないように、あなたのほうで先手を打ってちょうだい(実際は、あなたを裏切ることなんかできるはずがないと思っているんだけど)」(『O嬢の物語』澁澤龍彦訳、河出書房新社)。ここでは、なんでも実現しかねない想像力こそ、彼を裏切る0.01%の可能性を生むものとして、はっきりと退けられている。

 ガストン・バシュラールの『大地と休息の夢想』には、想像力の働きとして突飛にも思えるような多くの例があげられている。「1682年に、ダンカンは次のように書いている。もっとも堅固な物体も、最後には損耗してしまうものだという考えに対して、この医師は、単に時間のせいであるとは考えていない。彼はむしろ、太陽の働きか、あるいは《あらゆる物体の分子の間隙を通じて、すみやかに通過してゆく精緻な物質の激しさが、いつとはなしにその各部分を損なってゆくこと》を想像する」(『大地と休息の夢想』饗庭孝男訳、思潮社)。他にも「それはないだろう!」とつっこみたくなるような例が満載だ。それなのに、われわれが生きる上でもっとも大事なものは想像力であり空想する能力なのだということを深く認識させられるのである。

03 アシュモルの言葉

『ポビーとディンガン』の原作は21世紀の『星の王子さま』とも称されており、見えないものこそ大切だというメッセージはたしかにサン=テグジュペリを継ぐものと言えるかもしれない。オーストリアのオパール鉱山というもっとも空想の入る余地のない舞台設定にもそういった傾向が見られよう。一見何も存在しなさそうな星や広大な大地にこそ、もしかしたらわれわれの空想を喚起する隠れた装置が隠されているのかもしれない。

 事態がどんどん悪くなる一方で、次第に打ちのめされていく母親が、こっそり昔の恋人の写真を取り出すシーンがある。それを見た息子のアシュモルが言うセリフ、「彼と一緒になっていたら絶対によくない結果になっていたと思うよ。いまのぼくらのように幸せにはなっていないよ」。一家がこれまでに経験したことのない不幸のどん底にあるとき、この言葉は人の心をうつ。子どもの発したちょっとした言葉がいかに人を元気づけてくれることか。幸せであるかどうかということは、だれにとっても主観的なものにすぎない。心の持ちかただけでどれほど豊かな世界が手に入ることかと思わず考えさせられたのだった。

 映画館を出て、ワインを飲んだ後で、ぼくはその人妻に「さようなら」と軽くハグをした。やっぱりすばらしい時間だった。かけがえのない時間というのはこうしてやってくる。彼女はガーデンプレイスの地下の駐車場に降りながら。こちらを振り返って何か言おうとした。しかし、その声はぼくにまで届かなかった。

○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。1972年、東京大学卒。東京大学人文科学研究科大学院(宗教学専攻)博士課程修了。その後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらのもとで研究を続ける。1980〜2002年、関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。1974年より現在まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続けている。著書に『男が女になる病気』『分裂病者のダンスパーティ』『快楽は悪か』『宗教学講義』『オデッサの誘惑』『聖地の想像力』他。

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