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3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・シールズ

「1968」以来、半世紀近くの時を経て、路上が人の波に覆いつくされた。議会制民主主義やマスメディアへの絶望が、人々を駆り立てたのか。果たしてそれは、一過性の現象なのか。新左翼運動の熱狂と悪夢を極限まで考察した『テロルの現象学』の作者・笠井潔と、3.11以後の叛乱の“台風の眼”と目される野間易通が、現代の蜂起に託された時代精神を問う。

笠井潔/1948年生まれ。作家・評論家。79年『バイバイ、エンジェル』で第6回角川小説賞を受賞。98年『本格ミステリの現在』の編者として第51回日本推理作家協会賞を受賞、2003年『オイディプス症候群』と『探偵小説論序説』で第3回本格ミステリ大賞を小説&評論・研究の両部門で受賞。『テロルの現象学』『例外社会』等の思想史・社会評論の著作も多数。 限界研blog

野間 易通/1966年生まれ。90年大阪外国語大学インド・パキスタン語学科卒業。『ミュージック・マガジン』副編集長等を経て、フリー編集者に。2011年4月TwitNoNukesのスタッフとなり、反原発連合の立ち上げに参画。2013年1月 「レイシストをしばき隊」を結成。同10月対レイシスト行動集団 C.R.A.C.(Counter-Racist Action Collective)を結成。

 

第2回 雲の人たち 野間 易通

 ハスラー・アキラ(Akira The Hustler。本名=張由紀夫)という現代美術作家が2015年の夏につくった作品に、"Cloud" と題した写真、ドローイング、スタチューのシリーズがある。

 屈強な男性の頭の部分が白い雲のようなもので表現されていて、手にオールを持っていたり、あるいはスローガンが書かれた腕章を腕に巻いていたりする。腕章には、"REBOOT DEMOCRACY"とある。言うまでもなくこれは、この夏の国会前や路上に集まったたくさんの人たちと、その行動にインスパイアされたものだ。

 なぜ雲のようなモチーフが使われているのか。

 ハスラー・アキラは、ライターの松沢呉一がふと漏らした「デモはまるで雲みたいなものだ。どこからか集まり、ぱっと消える」という言葉を聞いて、製作を思い立ったのだという。

 松沢がこれをいつ言ったのかは知らないが、2015年の夏の話だけをしているのではないことは確実である。というのも、3.11以降の社会運動の形態とは基本的にそういうものであり、彼はそれをずっと観察しつづけているからだ。

 奇しくも笠井さんが「反原発/反排外主義/反安倍という3.11以降の運動過程」「その先導者として反原連/しばき隊/SEALDs」と認識している2011年以降の社会運動は、クラウド型の運動であると言われてきたりもした。

ハスラー・アキラ「Cloud」
粘土、パイン材、アクリル/2015年/写真=竹之内祐幸

 五野井郁夫が『「デモ」とは何か――変貌する直接民主主義』(NHKブックス、2012年)のなかで提起した「クラウド化した社会運動」の概念とは、「ウェブを介して容易に情報にアクセス可能になることで、小規模のコストと手間で情報を共時的にシェアし並列化でき、象徴的なインフォメーション・センター以外に、特定の本部や拠点を必要としない。フォーマットはもちろんプラカードなどのツールもダウンロードできるし、ミーティングポイント、デモコースも把握可能」なものである。今から3年前の話だ。

 松沢呉一はふだんクラウド・コンピューティングの話になど関心がなく、彼の口から最新のウェブ・テクノロジーについての話が出てくることもないので、彼の言う「雲」とは文字通りに空に浮かぶ雲のことであり、時間の経過にあわせて規模や形を変え、最後には霧散して消えてしまうデモの総体をたとえたものであっただろう。しかしながら、それは同時にクラウド化した社会運動が物理的にどのようにあらわれるかを的確に表現した言葉でもあったのだと思う。

 実際には、「クラウド化」してない社会運動や市民運動でもだいたいにおいて参加者は三々五々集まり、デモが終わるとそれぞれが家路につく。別に常にバスを仕立てて集団でやってきて集団で帰っていくわけでもないので、様子はそんなに変わらないのかもしれない。しかし、なぜ3.11以後のデモが彼の目にそう見えるのかといえば、たとえば労働組合や政党といったようなはっきりとした所属先、いわばローカルのハードディスクのようなものが、デモが始まる前と後に見当たらなくなるからではないかと思う。そのようなものがないことを、松沢は知っているのだ。

 笠井さんが「黒いTシャツたち」を見た8月30日14時半すぎ、国会議事堂前の10車線の車道はすべてプロテスターで埋めつくされた。そしてその直後、もっとも国会側のポリス・ラインから数十メートル下がったあたりに、文字通りの「雲」が浮かび上がった。

 白・黒・グレーのモノトーンの風船の塊に「安倍やめろ!」と書かれた巨大なバナーがぶら下がる。ヘリウムガスの計算を間違ったのか、その風船とバナーは人波の真ん中で低く喘ぐように、地上2〜3メートルのところをゆらゆらしている。地面についてしまわないように、最下部に書かれていた "FCK ABE" の部分およそ1×3メートルほどが急遽ハサミで切り取られた。その状態のまま、プロテスターたちの頭のすぐ上をまるで地表を這いずるかのように国会に向かって進んでいく。「黒いTシャツたち」が引っ張っていったのだ。

写真=島崎ろでぃー

 最前列まで行った風船とバナーは、不思議なことに地上十数メートルまで上昇していた。おそらく、人の熱気によってその周辺だけ気温が上がっていたのではないかと思う。無数のカメラとスマートフォンが、その巨大な「安倍やめろ!」を撮影する。

 ハスラー・アキラのところには翌日、友人からこんなメールが来たという。

 「あの” ”は貴方たちが作ったんだね。スバラシイ」

 少なからぬ人が、それを「雲」と認識した。ツイッターには「空に虹がかかる前に必ず湧き上がる黒雲、権力者をannoyする暗雲、参集した怒れる民衆という雲」「虹をかけるための怒りの雷雲。空に浮かぶ黒と白のパワー」といった言葉が並んだ。

 ハスラー・アキラは「黒いTシャツたち」の一人であり、この風船バナーのアイデアを出した一人でもある。この3×5メートルの巨大バナーの製作は、ハスラー・アキラが所属する六本木のギャラリー、オオタファインアーツで行なわれた。しかし実のところ、「黒いTシャツたち」の誰ひとりとして当初これを「雲」と思っておらず、製作の狙いもそうではなかった。

1991年のニューヨークと2015年の国会前

 このバナーの直接のインスピレーションは、1991年にアメリカ、ニューヨークのACT UPという市民団体が地下鉄のグランド・セントラル駅構内に掲げたものに由来する。それはピンク色の風船の束に縦長の巨大バナーをぶら下げたもので、 "MONEY FOR AIDS NOT FOR WAR" の文字が記されていた。

 ACT UPとは、文字通りには「派手にやれ」という意味の命令形動詞句だが、 "AIDS Coalitionto Unleash Power" の略でもある。「力を解き放つためのAIDS連合」「派手にやれ」その名の通り、さまざまにパワフルな非暴力直接行動によって、80〜90年代のアメリカ合衆国のAIDS/HIV政策に大きな影響を及ぼした、LGBTのメンバーを中心とするアドヴォカシー・グループ(権利擁護団体)だ。「黒いTシャツたち」は、実はこのグループに大きな影響を受けているのである。

 ハスラー・アキラは1993年、京都市芸術大学の学生だった頃に、前年にゲイであることとHIV陽性であることをカミングアウトしたダムタイプの古橋悌二(1995年没)の影響で社会運動に参画するようになった。90年代を通してインスタレーションを通じてHIV/AIDSの啓発を行なうビジュアルエイズ(Visual AIDS)に参加したり、エイズ・ポスター・プロジェクト(APP)の活動家として京都で精力的に社会運動を行なった。あるいはクラブ・イベントを企画してドラッグ・クィーンとしてパフォーマンスをしていた。彼はACT UPの活動をリアルタイムで目撃していた一人でもある。その後東京に移ったアキラは、2005年から新宿二丁目のコミュニティセンター、aktaを拠点にリビング・トゥギャザー計画にかかわるようになる。

 リビング・トゥギャザー計画はHIV感染者の手記を集めクラブなどでライブで朗読するイベントと、それらの手記をまとめたブックレットの発行などを通じて「すべての人がHIVとともに生きている」ことのリアリティを共有する目的の運動だった。2011年後半にはイベントの参加者に東京の反原発デモ団体TwitNoNukesのスタッフの姿が見られるようになっていた。

 TwitNoNukesはいわゆる「3.11以後」の新しい反原発団体で、翌年首都圏反原発連合の一員となった。2012年の夏に官邸内で野田佳彦首相(当時)と面談した13人のうちの一人、平野太一がTwitNoNukesの中心人物だったが、彼がゲイだったこともあり、TwitNoNukesまわりの人脈とリビングトゥギャザー計画まわりの人脈との交流は、ハスラー・アキラを媒介にどんどん活発になっていった。そのほとんどは、LGBT当事者ではなくストレートだったが、いわゆる「アライ(ally=セクシャル・マイノリティの支援者)」ではなかった。むしろ、単に「ともに生きている」人間の一人という意識でしかなかったように思う。

 2014年から2015年にかけて、プーチン大統領のLGBT政策を批判する路上での抗議行動がおきたり渋谷区のパートナーシップ条例に反対する右翼に対してハチ公前広場で大規模なカウンター行動がおこなわれたりしたが、これらの動きの人的ルーツは、このリビングトゥギャザー計画とTwitNoNukesの交流にある。また、2014年の東京レインボープライドに「東京大行進2014」のスタッフによる “Tokyo No H8” というフロートが出るにいたったのも、この交流の延長線上にある動きだった。

 ACT UPは2012年に『怒りを力に〜ACT UPの歴史(原題=United in Anger: A History ofACT UP)』(ジム・ハバード監督)というドキュメンタリー映画をリリースしたが、翌年から日本でも自主上映が行われ、反原発運動の関係者や反ヘイトのカウンター行動の参加者たちが見に来るようになった。2015年に入って、DJ TASAKAの『UpRight』発売記念パーティでの上映や、大阪の「仲良くしようぜパレード」のスタッフによる関西や東海地方での上映会なども行われている。したがって、現在の路上行動に参加している人のうち少なからぬ割合の人が、1991年のグランド・セントラル駅のバルーン・バナーと、2015年国会前での「不吉な雲」とのつながりを知っているのだ。

 国会前のモノトーンの「不吉な雲」は、実は国会前に現れる以前にも東京のあちこちに姿を見せている。最初は2015年2月に代官山UNITで行われたC.R.A.C.主催のクラブ・イベントCLUB CRACの店内デコレーション、そして4月に渋谷で行われた東京レインボープライド2015パレードでTOKYONO HATE号に括りつけられたもの、間に8月30日の国会前をはさんで、11月の東京大行進2015で再びC.R.A.C.のサウンドカー。

 準備をしているのは、いずれも「黒いTシャツたち」だ。笠井さんは「現代の黒シャツ隊だね」などと笑えない冗談を飛ばしていたが、実際問題これは、誰か。

新横浜の路上に折り重なる「あざらし」

 外から見ていた笠井さんは、《C.R.A.C.の「WAR AGAINST WAR」のシャツから、野間さんの仲間らしい》とまず考えた。これは、半分ぐらい当たっているが、半分ぐらいは間違っている。なぜなら、「黒いTシャツ」にはC.R.A.C.と関係のない人がたくさんおり、さらに私が知らない人もけっこういるからである。

 そしてここで、笠井さんのエッセイにおける前提にも重大な疑義が生じる。《反原発/反排外主義/反安倍という3.11以降の運動過程》における《先導者》が《反原連/しばき隊/SEALDs》というのがその前提だが、実はこれも半分ぐらいはあたっていて、半分ぐらいは間違っている。というのも、この「黒いTシャツたち」には2013年に解散した「レイシストをしばき隊」とも関係がない人が大量に含まれているからだ。

 話が複雑になるので補足しておくと、「レイシストをしばき隊」は2013年2月から9月まで活動したあと解散、その後C.R.A.C. (Counter-Racist Action Collective)が発足した。C.R.A.C.はときどきカウンタープロテストを呼びかける反レイシズム運動の市民団体だが、同時にクラブ・イベント・オーガナイザーであり、Tシャツ屋でもあり、CDショップでもあり、書店でもある。

 「反原連/しばき隊/SEALDs」という3つの名前は、それぞれ2012年、2013年、2015年に社会運動の表舞台で注目を浴びたという共通点はあるものの、実態はそれぞれかなり違う。細かい違いは置いておくとして、この原稿の流れ的にもっとも重要だと思われる点をピックアップするなら、「しばき隊」がもっともクラウド的であるという点である。また、私個人に関していえば、反原連と「しばき隊」にはかかわっているが、SEALDsとは関係がなく、単なる知り合いである。さらには、私が運動上、何らかのイニシャチブをとったと言えるのは唯一「しばき隊」のみで、反原連では中心人物ではなかった。反原連の中心人物はミサオ・レッドウルフ(No Nukes MoreHearts)、原田裕史(たんぽぽ舎)、平野太一(TwitNoNukes)、服部至道(エネルギーシフトパレード)といった人々である。野田佳彦と会った13人のなかに私がいないことからも明らかなように、私はあくまで現場スタッフの一人だったにすぎない。

 ここで「しばき隊」と呼ばれているものは、2013年の時点においてすでに「レイシストをしばき隊」とは別のものであり組織としてのC.R.A.C.とも違う。レイシストをしばき隊もC.R.A.C.も、誰がメンバーで誰がそうでないかはっきりと判別可能なメンバーシップ制のグループだが、世間一般が「しばき隊」と呼んでいるものはそれ以外のさまざまなグループや個人を含む。総体的に見て、「反レイシズム運動の人」「カウンター」とほぼ同じ意味で使われているようである。また、レイシストは「しばき隊」をネガティブな呼称として使っているが、それが指し示すものも同じだ。

 2015年の国会前で笠井さんが「黒いTシャツたち」と認識したものはその一部だが、それはエッセイの後半に出てくる《C.R.A.C.の分身らしい正体不明の集団「あざらし」》の一部でもある。しかし、給水車を出していたボランティア・グループも実は「あざらし」であり、黒いTシャツと一部は一体化している。音響面その他でSEALDsを直接的にサポートしていた「あざらし」もいたが、それは「黒いTシャツたち」とは別の集団である。中核派や革労協といったセクトと衝突したのは「あざらし」で、これは「黒いTシャツたち」を多く含む。

 さらに最新情報を付け加えると、今年の東京大行進2015でC.R.A.C.と東京大行進フットボールクラスタが協力して出したサウンドカーの前面には「SEALs COME OUT FIGHTING」と書かれた、エンブレムをかたどった大きなバナーがあり、沿道の人たちはこれを当然SEALDsと誤認したが、偽物である。SEALsという綴りからわかるように、これは「あざらし」のバナーである。また、C.R.A.C.が呼びかけるか否かにかかわらず、反レイシズムのカウンターの告知には、あざらしの写真や意匠が大量に登場するが、これにSEALDsは関係がない。したがって《SEALDsの応援団をかって出た、C.R.A.C.の分身らしい正体不明の集団「あざらし」》という認識も実は正確ではない。 

 まとめてみよう。

  黒いTシャツたちはC.R.A.C.ではない。
  黒いTシャツたちはあざらしである。
  黒いTシャツたちは給水ボランティアチームではない。
  給水ボランティアはあざらしである。
  あざらしはしばき隊ではない。
  あざらしはC.R.A.C.ではない。
  カウンターはあざらしである。

 

 さっぱりわからないと思う。私もよくわからない。

 「反原連/しばき隊/SEALDs」と3つ並べた場合、反原連やSEALDsは比較的よくオーガナイズされた輪郭のはっきりした組織だが、真ん中の「しばき隊」は、すでに2年前に解散しているということもあって、まるでゴーストである。さらに正確には、その実体は2015年においては「あざらし」である。

 あざらしは、ネット上でSEALDsをSEALsとスペルミスしたところから始まった冗談に端を発するもので、それは2015年夏のSEALDsを勝手にネットや現場で盛り上げ、勝手にサポートしようとする人々の自称だった。あざらしの体型とふてぶてしさは、若くてフレッシュなSEALDsに比して中年太りして図々しい自分たちにぴったりな感じがしたのだろう。実際、9月16日の午後に新横浜プリンスホテルで行われた安保法制の横浜公聴会後、国会に戻る車列をシットインで妨害し1時間ほど止めた集団にはSEALDsはほぼおらず、ほとんどが中年の「あざらし」だった。それが道路に折り重なって寝転ぶ姿は、文字通りあざらしの群れのようであった。

 あざらしは2014年には存在しなかった。そして、2016年にももういないだろう。これは、デモが終われば霧散するクラウドの、サブカル的な悪ノリを含むとりあえずの総称にすぎず、もっとも正確に記述するとしたら「誰でもない」ということになるのではないかと思う。

 しかし。この、デモやプロテストに集まり終われば霧散する「誰でもない」クラスタ、ときに組織的に連携し風船を膨らませたり水を配ったり車を運転したりサウンドシステムを構築したりする人々は、ある種のリベラリズム的な思想をゆるく共有していて、それは実体のある集団として存在しているものなのである。

 2011年3月以来、東京には「大きな政治的イシューが持ち上がるとさっとデモに集まるコア・クラスタ」が数百人レベルで存在していて、ふだんは全くばらばらにそれぞれの生活を送っている。年齢は30〜40代が中心、リベラル左派的な考えを持つがさほど反資本主義的ではなく、アナキスト的でもない。また、ロハスやオーガニック製品を好む層とも違う。共産党候補に投票する人が多いが、党員というわけではなく共産党支持者でもない。2011年の素人の乱の「原発やめろデモ!!!!!」に集まった無党派層とはもちろん重なるが、同じではない。

 彼らは2011年においては街頭における反原発デモに、2012年は金曜官邸前の群衆の一部として、そして2013年にはレイシストに対抗するカウンター・プロテスターとして、2014年には秘密保護法反対で官邸前に、2015年にはSEALDsの集会に足繁く通った。いまあざらしやANTIFAを自称し、第三者、特に批判的な人々から「しばき隊」と呼ばれている人たちはこういうクラスタの一部であり、離合集散を繰り返しながら少しずつ人数を増やしつづけているのだ。

 このクラスタはネット、とくにツイッター上で非常に喧騒なことでも知られているが、よく言われているようにまったくばらばらの無色透明の個人が「ネットを通じて集まった」とも言い切れない。また、3.11以降に急に形成されたわけでもない。実は、その多くは3.11以前から存在した、音楽やアートやサッカーといったサブカルチャーを共通の文化背景とするいくつかの小さな集団がゆるく結びついたものだ。

「ストリートを取り戻せ」とは?

 社会運動〜デモの文脈においては、そのルーツは2003年のイラク反戦デモに辿ることができる。

 この当時、大きな反戦デモはワールドピースナウ(WPN)という無党派の市民団体が主催していたが、これは2015年夏の国会前における「総掛かり行動実行委員会」のようなものである。2003年3月21日、イラク戦争の開戦翌日に芝公園23号地を出発し日比谷公園で解散したデモには、大音量でダンス・ミュージックを流すサウンドカーがいた。このブロックはデモコースの途中から最後尾にスルッと合流する形になっていて、私も何か側道のようなところに集合した。芝公園の集会には出た記憶がない。そんな状態だったので、このサウンドカーの存在に気づいていなかったデモ参加者が大半だったようだが、実はこれがいま街頭でよく見る形態の「サウンドデモ」の最初の試みである。

 この「サウンドデモ」をオーガナイズしていたのはイルドーザーというデザイナー・ユニットと三田格ら音楽ライターで、クラブ・カルチャーの周辺にいた人たちである。同年5月に河出書房新社から出た『NO!! WAR』という本はイルドーザーがデザインを担当し、音楽評論家の野田努、三田格、アート・ライターの工藤キキなどが執筆していたが、これは反戦をテーマにした、デモと街頭直接行動の指南書だった。

 私個人の体験としては、この日「生まれて初めて」デモに参加し、しかもそれがこのサウンドカーの隊列であったことは重要な影響を及ぼしていると思う。荷台にDJブースを設置し、ふだんクラブで聞いているのと変わらない状態で音楽を流し、参加者は踊りながら街のどまんなかを進んでいく。これは痛快でもあった。これならデモに全然参加できるじゃん!という気分になったし、周りに自分の見慣れない労働組合風の人や新左翼セクト風の人がいないのもよかった。現場で会ったのは、イルドーザーや野田努、ソニー・テクノ部門のディレクターなど、それまで仕事や趣味で出会っていた知り合いばかりだった。

 のちにいろんな人の取材で明らかになることだが、いま3.11以降の運動で路上に出ている人のなかには年齢にかかわらず2003年のイラク反戦デモが最初の体験だったという人は多い。長らく享楽的でのほほんとした生活を送っていたいわゆるノンポリ層を動かしたという意味で、イラク反戦デモは大きなメルクマールとなるものだったのだ。

 このサウンドデモは、すぐにASC(Against Street Control)というチームを形成することになる。これは先述のイルドーザーや三田格といった音楽人脈に矢部史郎らが加わった無党派個人の集合体で、その形成にあたっては「活動者と音楽関係者だけでなく、編集者、小説家、美術家、ライター、デザイナー、フリーター、プータロー、学生が含まれ、それぞれがデモの組織化にあたってノード(結び目)となるごった煮の様相を呈しはじめていた」という*1。

 警察と融和的に「反戦パレード」をやろうとするWPNに対し、ASCは反警察を前面に押し出しており、その点でも、ACAB(All Cops Are Bastard)を掲げる現在の欧米のANTIFAやアナキストに近いスタンスだったと言えるだろう。また、現代美術作家/文化人類学者のイルコモンズ(小田マサノリ)を中心に、いま国会前や各地のデモにいるドラム隊の前身TCDC(Transistor Connected Drum Collective)が形成されたのも、この流れが起点となる。ラッパーのECDもそこに加わり、その後2000年代を通じて反戦デモや反グローバリズム・デモに登場する一連の黒尽くめの集団が形成されることになった。

 ASCは、90年代イギリスのレイヴ・カルチャーから始まったスローガン ”Reclaim The Street”(ストリートを取り戻せ)をそのまま採用していた。社会学者の毛利嘉孝は、そのサウンドデモに集まる人々をネグリ/ハート言うところの「マルチチュード」に見立て、イルコモンズやECDを「ストリートの思想家」と呼んだ。それは《ミュージシャンやDJ、作家やアーティスト、あるいは匿名性の高い無数の運動を組織するオーガナイザー》で、《身のまわりのちょっとした「有名人」であり、目に見える交友関係の延長線上にいる。また、政治運動を組織(オーガナイズ)するだけではなく、同時に文化的実践者であることもその特徴だ》(『ストリートの思想――転換期としての1990年代』(NHKブックス、2009年)。

 毛利は言う。《「ストリートの思想家」は、アントニオ・グラムシが言うところの「有機的な知識人」の現代版である。(中略)このような知識人は、伝統的知識人のように大学にこもって研究しつつ、文章の力で人を動かすのではない。むしろ人をいろいろな形で組織することで政治を作り出す存在で、労働組合のオーガナイザーや編集者、知識産業を支える印刷工などもここには含まれる。(中略)2003年の反イラク戦争デモ以降の社会運動では、こうした複数の「ストリートの思想家」が重要な役割を果たしていく》。

 運動の参加者については《組織や党派に属さず、会社や大学にも属してない人々が組織して》おり、《そのネットワークの作られ方は多くの場合、顔の見える、比較的小さな単位のコミュニケーションに基礎を置いている》。毛利によれば、こうした運動は「対抗的な生権力」が前景化したもので、その象徴はサウンドデモのアンセムとなっていたECDの「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」という曲であった。言うまでもなく、これは2015年の夏にSEALDsが国会前で叫んだ「言うこと聞かせる番だ俺たちが」のルーツである。

 3.11以降の社会運動はよく個人の集まりであり無党派でありということが強調されるが、そこだけを見れば2003年当時となんら変わることはない。おそらくベ平連のときも似たようなものだったのではないかと思う。しかし、ベ平連と「3.11以降」には直接的なつながりはないが「2003年」と「3.11以降」は文字通り連続しているのである。違いは「言うこと聞くよなやつらじゃないぞ」から「言うこと聞かせる番だ俺たちが」への変化だが、このわずかな文言の違いには実は主体の大転換が含まれていて、結果もっとも大きな、本質的な変化を象徴することになった。

 ASCのサウンドデモは、”Street Rave” と称して渋谷で何回か行なわれた。DJにはChari ChariやMayuri、Force of NatureのDJ Kent、中原昌也などが登場。ランキン・タクシーのTaxi Hi-Fiがサウンドシステムを提供し、宇川直宏がサウンドカーの上から青山のビル群にゲリラ的にプロジェクション・マッピング的なことを行なうという試みもあった(これは光量の関係で失敗した)。やがてサウンドデモの中心は高円寺に移り、後の素人の乱の人脈と合流する。私個人はこの時点でなにかしっくりこないものを感じ始めており、渋谷でのサウンドデモに何回か参加したあとは行かなくなった。

 このあたりの動きは前掲の『ストリートの思想』によくまとまっている。毛利さんは私が『ミュージック・マガジン』で編集者をしていた90年代に、UKのレゲエやカルチャラル・スタディーズについての原稿を何度か頼んだことがあった。この本が出たとき、私は毛利さんに「”Reclaim The Street" の”street” は日本の道路と同じものなのかどうなのか。私はそれを "サヨク" に奪われたと感じた」というメールを送ったことを覚えている。返事はなかった。

 現在の矢部史郎の反原連以降の運動への評価を見てもあきらかなように、2003年のASCは「ヘサヨ」のルーツでもあった。2011年に素人の乱の面々が主催した「原発やめろデモ!!!!!」のサウンドカーやカルチャーには、このASCの流れがまだ色濃く残っている。しかし同時に、そことは別の流れが分岐し始めてもいた。それがTwitNoNukesだった。 

イラク反戦デモと「しばき隊」をつなぐキーパーソン

 かつてイルドーザーのグラフィック・デザイナーで現在DJとして活躍する1-drinkは、本人の性格からか表にほとんど出てくることはないが、3.11以後の運動のなかで重要な役割を果たしている。私が初めてデモを主催することになったのは2011年4月30日のTwitNoNukesによる反原発デモだったが、1-drinkはこのTwitNoNukesの立ち上げメンバーの一人であり、さらに2013年の「レイシストをしばき隊」の最初のメンバーの一人でもあるのだ。組織としての「しばき隊」が解散し、C.R.A.C.となって以降、ロゴ・デザイン等のアートワークを手がけたのも彼である。

 彼はかつてキミドリというヒップホップ・グループのラッパーだった。すなわち、現在のDJ 1-drink=キミドリののKuro-Ovi=イルドーザーの石黒景太である。人柄もあって、彼の音楽/デザインの分野での人脈は幅広い。デモがあると集まるコアな数百人の中に、キャップをかぶってきれいなスニーカーを履いた人が少なくないのは、こうしたカルチャーや人脈から人が動員されていることを物語っている。私とは、かつての仕事仲間でもあった。『ミュージック・マガジン』で担当していた高橋健太郎の連載記事のイラストをイルドーザーに頼んでいたからだ。彼とは2003年のイラク反戦デモで久しぶりに出会い、その12年後の2010年、渋谷のクラブModuleでまた再会することになる。そこには、bcxxxもいた。

 この3.11直前の時期に、1-drinkとbcxxxと私、それにあと何人かの人が「在特会をしばきたい」なんてことをぶつぶつとツイッターでつぶやきあっている記録がある。ログを見ると、2010年3月2日。私はすでにカウンター的なことを始めていて、ツイッターはそのためにアカウント登録したようなものだった。京都の朝鮮学校襲撃事件や新宿での高校生襲撃事件など在特会が大暴れしていた頃で、私のツイートは半分以上それに関するものだったのだが、そこに1-drinkが自然に接続してきたのは嬉しくもあり、意外でもあった。やっぱりポリティカルな人だったんだなと思ったと同時に、それまで反在特会的な動きのなかに過去の知り合いが初めて参入してきた感じがして、ちょうど「ネットを通じた」運動の脆弱さを痛感していた時期でもあったので、非常に心強かったのだ。「レイシストをしばき隊」が活動を開始したのは2013年の2月だが、本当の起点はここにあったと言うべきだろう。

 それから1年後、東日本大震災と原発事故が起こり、私個人は在特会のことをそっちのけで反原発運動に没頭することになった。そのきっかけも、1-drinkである。彼は原発事故の直後、3月12日か13日に園良太が東電前で抗議しているのを見て(これが後に「東電前アクション」というグループになる)、すぐに駆けつけ横断幕を持ったのだった。私はそのときはまだ、若干躊躇していた。しかし1-drinkには、迷いがなかった(1-drinkによれば、そこにはDJ TASAKAもいたという)。

 「レイシストをしばき隊」以前の在特会への路上での直接的カウンター行動をになっていたのは、関東では2010年に立ち上がった「ヘイトスピーチに反対する会」が組織としてはほぼ唯一で、その中心となっていたのはフリーター全般労組とノンセクト・ラディカルの人々であった。実はこれが、ASCとともに反戦デモや反グローバリズム運動をやっていた人脈の後継である。カウンター行動の最初の逮捕者は、2009年に在特会が蕨市で行いその後勢力拡大のきっかけとなったフィリピン人少女へのヘイトスピーチデモにおいて、彼らの横断幕を実力で奪い取った矢部史郎である。

 「ヘサヨ」の語源は「ヘイトスピーチに反対する会のやつらみたいなサヨク」という意味で、これは周知のとおり現在の「カウンター」「しばき隊」「あざらし」などと呼ばれている人々が政治的に敵対する一連の人々に対するレッテルだが、後者にもまた2003年のイラク反戦デモやASCをルーツとする人々が多数いる。そして3.11以降そこにに加わったのが、「デモがあるとまるで雲のように集まり終わると霧散する」コアな数百人なのだった。


*1 noiz - 「サウンドデモ」史考――人はどんちゃん騒ぎのなかに社会変革の夢を見るか(『アナキズム』第12号所収、2009年)

(2015年12月15日掲載)

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